北神戸丹生山系 帝釈鉱山跡~帝釈山~丹生山~シビレ山 端谷城・池谷城・大山寺城
Ⅰ淡河城~浦川渓谷~丹生山(516m)~帝釈山~岩谷峠 2000年07月22日
衝原湖~帝釈山~丹生山(516m)~シビレ山~シブレ山 2002年11月10日
 有馬~木見~端谷城(Ca140m) 2003年10月18日
 三木~木見~池谷城(Ca102m)  2004年03月28日
 帝釈山173m~三身山Ca200m(太山寺城) 2004年03月28日
志染町三津田から・中央奥が呑吐ダム H15.6.29

関西百名山:帝釈山586m
近畿の山城:淡河城 淡河城西付城・南付城 端谷城 池谷城
丹生山城 三津田城(満田城)衝原城(未訪) 大山寺城
校歌の故郷の山 三木小学校 ♪丹生山の白い雲…♪
            三木中学校 ♪丹生山の峰高く…♪
             三木高等学校 ♪山遥かなる丹生に…♪
            三木北高等学校 ♪丹生の峰輝きて…♪

端谷城遠望・観音寺橋から

県道52号線の寺谷バス停から明石川の支流・枦谷川(櫨谷川)に架かる観音寺前橋を渡った北側にある雑木林で覆われた小高い丘陵の山腹に満福寺(明石西国観音霊場18番札所)の屋根が見える。寺へ向う正面の道は大手道で橋を渡った周辺には左右に平坦な空地や田畑があるが此れ等の削平地には櫨谷川を水堀とした城主居館・侍屋敷群・蔵等が建っていたと推測されます。境内に城主衣笠範景の顕彰碑と此処に端谷城がある。寺の入口に城跡碑や案内板があり満福寺境内の本堂の建つ「三の曲輪」の直ぐ背後 「二の曲輪」との間には大堀切が綺麗な状態で残っていて神戸市内でも最も保存状態が良好な山城だといわれます。
満福寺の石段下にある城址碑

小さな城だったので残ったともされるが地元保存会の努力でハイキング道として整備され各所に親切な案内板も設置されている。
満福寺の境内「此処が三の丸」山門へ車道(一般車乗入れ禁止)が通じる。車道を左に見て端谷城主郭「一の丸」へは右手にある細い階段を庫裏!!の裏手へ抜け北の尾根に向う登路を進むと削平地に続く急斜な大土塁を越えた途端、息が止る程の感動を覚える。さらに先に向う「二の丸」の高い切岸に威圧され土塁越しには三の丸に建つ満福寺の甍を見下ろして境内と二の丸の間にある大空堀に圧倒される。
満福寺背後にある見事な土塁と空掘

明石川支流・櫨谷の谷筋には 池谷城・福谷城・城ヶ市城・城ヶ谷砦・鷹尾城・友清城など衣笠氏一族のものと考えられる多くの城や砦を築いていくが其々の場所や城主・築城時期については「兵庫の城紀行」の端谷城を参考に満福寺裏手の衣笠城の訪城記録を留め遺構も残る同規模の池谷城も何時か訪ねてみたいもの。



Ⅰ淡河城-浦川渓谷-丹生山-帝釈山-岩谷峠
 H12. 07,22

428号に入り無動寺を過ぎ下山口の岩谷峠を越え環境センタ先の駐車スペースに車を寄せて車道(淡河スカイライン)をひたすら淡河本町に向かって降る。左下方に深く切れ込んだ谷が浦川渓谷。淡河本町のT字辻に光照寺:向かいの古い石道標が丹生山への参道で西国巡礼道でもある。丹生川沿いの竹藪で覆われた断崖状台地の上が淡河城。県道38号の淡河本町交差点のガソリンスタンドで左折三木方面へ進み次の
淡河城天守台跡に建つ城址碑 H20.02


淡河バス停で左の民家の先大手橋を渡れば藪の奥に消える細道が大手道で藪の坂道を抜けると田園風景が広がる。奥の方の集落には2~3軒の萱葺き屋根も見え左手の小公園が本丸跡・西に(西の丸)ある阿弥陀堂の白壁で囲われた一角が淡河氏歴代の墓所。磨耗した石仏・宝篋印塔・五輪塔等々が中央に集められている。本丸と墓所以外は全て田畑で集落に向かう車道が走っている。光照寺前の道標に戻り丹生山への谷に向かう。河川工事中の横を抜けると滑りやすい黒っぽい岩の小さな流れに出会う。平坦な流れに沿って辿ればすぐに堰提に突き当たるが左端は岩場のようだが下部は水門のよう?。
竹慶寺跡境内にある淡河氏歴代の墓碑 H20.02

水抜きの水門なら自然の岩に穴を穿がたなくても…と思うと不思議な造形に思う。右岸の細い踏み跡を上部に出て川筋に沿って貯水量の切れる谷に下りるまで暫く藪漕ぎだが谷に沿わなくても左手の踏跡を辿るのが正解だったか?。両岸が迫り深い淵や大きな釜をもつが不釣合な小滝を越して進む。黒っぽい岩と谷中の暗さ・淀む淵が陰気さを漂よわせている。両岸のへつりは手掛かりも多く岩も固くて快適です。2~3釜や淵を経て2m程の岩場を抜けて谷が左へカーブする個所が核心部で谷最大の巴滝2段6mがある。ここも右岸を越すと左岸上部の岩場に木造りと
帝釈山山頂

石造りの祠が祀ってありバーコード付の未だ新しい茄子が供えてある。この静かな谷の先は砂防ダムを越したところで遡行を終了。ここも右岸を巻いて左岸からの丹生山参道に合流する。R428へ出る分岐広場は幕営適地で数m先に「 鷹尾鉱山跡・淡河町の自然と文化を守る会」の標識と露天掘の古井戸跡のような坑口がある。ここで参道道と分かれ右手の谷に沿って進みます。シビレ山へ向かうつもりなので巡視路と分かれ谷を詰め道が消えかかるころ左の尾根に向かい
広芝池への下降尾根から帝釈山


短い藪漕ぎで尾根に出る。この短い尾根は谷を隔てた帝釈山-丹生山-の手前:とりあえず送電線に沿って端の鉄塔の有るピークまで行ってみます。三木方面に雄岡山・雌岡山の小さな岡が平地に突き出して見えます。少し戻ったところに谷筋への巡視路が谷に伸びています。谷に沿うように随分古い道が現れます。古い石標が三叉路にあり不動滝と丹生山参道への分岐を示している。先刻の短い尾根は展望良好のパノラマコース。丹生山参詣道は「清浄水」石碑とそれらしい窪地・岩場の上部に不動尊が祠られています。この道もしばらくで右手より蝙蝠谷・シビレ山方面からの道と合流して
丹生登山道左右に旧明要寺衆徒墓石群)を見る

「太陽と緑の道」として整備された見覚えのあるハイキングコースとなる。丹生神社まで気持ちのよい木陰と涼風の散策道が続きます。神社本殿の裏手から蝙蝠谷への踏み跡もあるが今回は帝釈山へ縦走です。丹生山 515mは平清盛が神戸福原に都があったころ比叡山に倣って日吉山王権現を祀り坂本の名もある。丹生山の丹(タン=に)は赤を意味して神功皇后が朝鮮出兵の際、諸所の神を集め祀って戦勝祈願したとき、ある神から 「六甲の北の山から丹(赤土)を採って船・武器・衣服に塗って戦えば勝てる」という言葉に従ったことから「丹生山」と呼ぶようになったといわれ、
丹生神社(本殿:拝殿)

丹生神社は明要寺を鎮護するために建立された神社で祭神・丹生都比売命を祀る全国丹生の地名ルーツといわれます。少し引返せば帝釈山縦走路の案内標識にしたがって帝釈山頂の切り開き以外はずっと木陰の中にコースが続き帝釈山頂586m帝釈鉱山跡を経て 坂本バス停への分岐から国道の岩谷峠に辿り付く。この暑い時期でなければ雉子ヶ墓山~花折山や志久峠を尋ねたいところです。


Ⅱ戦国悲話と古代遺跡が眠る山帝釈鉱山跡-帝釈山-丹生山-三津田道-衝原湖
 H14.11.10

私には丹生山地より帝釈山脈の呼称が馴染みですが六甲山系の北西に500m前後の山々を連ねる丹生山地の最高峰・帝釈山から須磨浦の源平合戦で源義経が鵯越の逆落し奇襲作戦をかけるため丹生山の峰を越えた義経道の伝承と日本最古の民家千年家が残る歴史道と衝原湖を周回するサイクリングロード
西神戸自動車道が跨ぐ衝原湖

・鉱山跡もある明るく静かな山域です。衝原とは原野(箕谷付近・山田町原野)の突き当たりの意味もある、そんな衝原湖:呑吐ダムは「吐く程呑む?」には少ない保水量だか静かに水を湛えている。このダム湖に対峙して北と西にシブレ山・シビレ山があり雉子ヶ墓山-花折山に続いて縦走コースの帝釈山~丹生山に此の二つの山も加えて歩きます。 今回の周回コースの基地は箱木のサイクリングセンターからこうもり岩を見て・こうもり谷から
林道終点・稲荷社側の坑口

シビレ山を目指したいが、こうもり谷は入山禁止なので85号に戻り鴬橋を渡り義経道~丹生山への林道に入る。分岐毎にチョークで書かれた登り下りの矢印は丹生山への義経道に続いているが当日のみのイベントなら紙かテープ標示にして終了後は片付けて欲しい。丹生から帝釈は往復するつもりだったが歴史の道を敬遠し帝釈鉱山跡へのコースから帝釈山に向う。未舗装の荒れた車道は稲荷社を祀る祠前まで続き谷筋と合流して山道になる。自然石の石段先に鎮座する稲荷社の柱に帝釈鉱山の文字が藪の中に踏跡があり古墳を思わせる坑口に続き、
帝釈鉱山跡

人一人腰を屈めてヤット通れるほどの鉱道が真っ直ぐ暗闇の世界に続いていく。いくつもの枝道はありますが谷沿いに進んでいくと10分程で鉱山跡への分岐となり正面奥に岩壁が見え水量は少ないが数段の高離のある滝が懸かる。其処に行く手前に"進入禁止"マーク看板の立つ大きな鉱口がある。40m程戻れば元の分岐。道なりに進み辺りが緩やかになってくると帝釈山から岩谷峠へ降る尾根に着く。左にとって帝釈山へ向かう途端ロープ伝いの急斜・直登が待っている。展望の効かないルートだが樹間を抜けて飛び出した賽の河原のような雰囲気だが一気に南方に展望が拡がる明るい露岩や石が点在する広場には3基の石の祠が祀られた背後が帝釈山(2等三角点 586m)で丹生山明要寺の奥ノ院として梵天帝釈を祀ったことに由来する山名。丹生山系随一の展望地で灘~明石海峡へ東西に光る海の白さが眩く感じる。小広場を抜けて出発と同度に又展望皆無の雑木の中の登り降りが続き シビレ山・不動滝コースへの分岐点迄来ると丹生山は近く、最期の下りでは曲輪を思わせる!!幾くつもの 平坦な段差を左右に見て「太陽と緑の道」道標に沿う広い山道に合流する。丹生山からはこの道をシブレ山へ向う三津田道を辿るが此処からの緩やかな山道に沿って続く杉林の中に現れる平坦地が曲輪跡であることを確信します。この三津田道は織田信長の毛利攻めと時を同じくして羽柴秀吉の三木城攻めは悲惨な兵糧攻め「三木の干し殺し」に対し丹生山にあった明要寺の僧侶達が三木城に呼応、厳重な警備陣をくぐり兵糧を運んだ道の一つが三津田道なので防護施設はなくても一時保管倉庫の曲輪群があっても当然?。義経道や3町石へ下る林道と合流し井戸への道を右に取れば丹生神社石の鳥居前に出る。最高地点の神社は後にして左手の石積の郭に行ってみます。郭の上には「明要寺跡・丹生城跡」石碑が建つ。山上の寺にしては堅固な石垣が参道に沿って築かれ寺を城砦化したものか!!此処が三の丸なら石鳥居のある二の丸を通って丹生神社へ数段の曲輪跡に沿う参道、階段を登ります。最期の急な石段を登り切ると正面に拝殿をみて左手端に数段の小さな石積みを残した一角がある。寺社の祠に檀にしては強固過ぎ!山頂周辺で唯一展望も望まれる所ですので櫓跡と思われる。丹生山頂を後にして分岐へ戻り三津田道をシビレ山に向います。
帝釈山山頂

幾つかの淡河町へ降る枝道を分けて「シビレ山・こうもり谷」道標のある分岐を進みます。途端にロープが続く直進の激登りですが直ぐに低潅木の明るく緩やかな尾根道になると展望開け露岩の点在する小広場「シビレ山古代祭祀跡」466m!に着く。小さな鞍部を登り返し縦走路の一通過点のような展望もない高みが本来のシビレ山名のかもしれないが立ち止まる程のポイントでもなく 先の古代祭祀跡をシビレ山としておいた方が雰囲気もあって良さそうです。此処からは降る一方の道だが結構急斜の続く所もあり秀吉軍の厳しい目があったにしても三木城への物資補給の為の道にしては厳しくその苦役が偲ばれます。送電線の巡視路となり鉄塔付近へ出てくると尾根からの見晴らしは良くなり衝原湖の先・北西の平野には、わずか240m足らずだが周囲には山がないので堂々と豊満な乳房をならべる雄岡山・雌岡山(どちらも播磨富士)が見える。丹生山の黒い頭がシビレ山に続く尾根の向こうで何時までも見送ってくれています。下方には山とも丘とも形容し難い平坦な森が拡がる。その杜へはガレた露岩帯から藪っぽく薄暗い道となり自然歩道は左手の衝原湖へと道を分けるが直進し小谷を越えて廃畑のような所を抜けると未舗装林道に出て広芝池に着きます。
山か丘稜か?衝原湖の先に雄岡山と雌岡山を望む


池から衝原湖への谷に落込む西側の山が気になる。此処に周辺の名所等地図入り案内板があり 千年家4km・衝原湖500m・満願寺へ1km程の地点で山の向こうは山田川(衝原湖)です。淡河川と山田川に挟まれた山としてはこの山域と勝手に決め登り口を捜して車道に出てくる。近くに三津田城があることを知ったが場所等判らず後日MLの城ファンの方から満願寺の近くと聞いて 場違いの山を登ったことになる。しかし此処にも堀切らしいものがあり箱木氏の衝原城や周辺警護の砦の関連がありそうだと思う。判然としないまま藪尾根を往復して呑吐ダムサイトに降りてくる。
山田川(衝原湖)を隔ててこうもり谷・こうもり岩

西にNTT電波塔のシブレ山頂が見えるので帰路途中ですので簡易ルートの林道を辿って寄ってみます。呑吐ダムから西神自動車道の下をくぐり抜けると サイクリングロードの衝原湖大橋を渡って車道正面の「つくはら隧道」へ向かう。手前にNTTDoCoMoのシブレ無線中継所に向う専用林道のゲートがあり、こんな所にも途中ゴルフ場があって談笑も聞こえてくる。舗装と未舗装を繰返しながらの管理道に距離表示のある杭があって1800mの杭が管理道の崖の端にあって山道が奥に向っています。NTT電波塔の裏の高みが山頂になっており脇道は直ぐ先で水道施設のようなタンクの設置された所があり何処へ通じるのか広い整備された道が下っていく。
シブレ山

頂上へは踏み跡らしき通過出来そうな藪中を突いて20m程のところがシブレ山(3等三角点 348m)で明るい小場だが 展望はあまりよくない。無線中継所横から高圧線の延びていく方向に良く踏まれた道が続いていますが地蔵尊や湿地帯(古代沼)を経て山田池に降り立つ道で何時か訪ねて見る後の楽しみにして山道とは反対に藪を突いてNHK専用林道へ戻る。「つくはら隧道」を抜け車道を歩くと初めてジックリと「こうもり岩」を眺められた。滑落事故が多いからか?登山者のマナーの悪さからなのか!!現在こうもり谷は入山禁止地域。サイクルセンタ駐車場に帰り着きます。


淡河城淡河城西付城と南付城 丹生山城
三津田城(満田城)
 端谷城 池谷)城 大山寺城


淡河城(上山城) xx 丘(平山)城  神戸市北区淡河町淡河(本町上山)

淡河城は下河原停留所【淡河バス停となっているかも?”道の駅淡河”が出来たので此処から直接模擬櫓を目指すのが一般的かも 】から浦川(丹生川)の大手橋をわたり左手の岸上台地(河成段丘)比高約20mの突端に築かれた城で 淡河城址市民公園として整備?され最近は櫓が新設されたと聞いて再度訪ねてみた。
浦川に面した断崖を天然にの要害とした淡河城

上山台地一帯の東・北・西三方は川と垂直に近い切岸で囲まれた天然の要害を形成する河川段丘端にあり播磨と摂津を結ぶ国境に位置する要衝でもある。昭和51年の圃場整備で本丸と堀跡を除き遺構は破壊され天守台は稲荷神社の境内となった。此処に三木合戦の際・淡河城攻めた有馬氏の末裔のあたる有馬頼寧氏の揮毫(昭和10年)になる 「淡河城址」の石碑が建ち土塁・空掘がある。有馬氏が淡河城を攻めた軍功で此処に入り東軍として関ヶ原の合戦に参戦して後・三田城に移り淡河は城史を閉じます。
淡河城西から南側を廻る内掘と土橋

淡河氏についての其の後は未調査ですが有馬氏が三田・福知山・筑前・久留米藩主へと続くなか秀吉方の有馬氏末裔・有馬頼寧氏と別所方として散った末裔にあたる方と思われる淡河氏が同じ久留米の地にある奇遇を感じる。運命で敵対したが播磨赤松一族としての顕彰碑建立(昭和49年(1974)淡河合戦395年を記念)となったものか鎌倉時代・承久の乱【承久3年・1221 武家の鎌倉幕府と朝廷の公家が戦った】に勝利した執権の北条氏が淡河荘を没収して翌貞応元年(1222)
淡河城西から南側を廻る内掘と土橋

北条時房の所領となり地頭職として補任された家臣北条(右近将監)成正が築城。時房が伊勢の守護職を賜ったので時房の子・掃部助時盛を淡河荘に補任し居城とした。貞応3年執権北条義時の死亡で泰春・時房が鎌倉へ下向し時盛も上洛して六波羅南方職に補せられ淡河荘は時盛の子・越後守朝盛(時治?)に与えられ淡河氏を名乗った。南北朝期・暦応2年(1339)後醍醐天皇に付き赤松円心則村に敵対して落城するが、その後の淡河氏は足利幕府体制下にあり・赤松氏に属し明徳3年(1392)には城主:淡河範清が赤松家より季範を養子として迎え摂津・東播磨国境を守備した。
淡河城本丸の天守台

嘉吉の乱(1441)に赤松氏は滅亡・但馬:山名持豊に降伏するが 応仁の乱(1467-77)に赤松政則が赤松家再興・山名氏から播磨を奪還すると淡河氏も赤松氏に復帰して活躍する。文明18年(1486)には東播磨8郡の守護代となった三木城主・別所則治に属します。天文23年(1554)有馬重則により淡河元範の淡河城は落城した。永禄元年(1558)淡河氏に戻って嫡男:範行が継ぐが次男:範政が丹波攻めに戦死して範之の養子:定範と続く。 天正6年(1578)2月別所長治が織田信長に背いて毛利方に付くと淡河城主:定範【別所長治の父:
淡河城本丸の模擬櫓

安治の妹を妻とし幼ない城主長治を後見して尽くした…】は東播磨の諸領主らと三木城主別所氏に同調します。天正7年(1579)5月羽柴秀吉は花隈城~淡河城~三木城へと運び込まれる毛利方の兵糧輸送経路を断つべく先ず丹生山城を奇襲し 続いて弟小一郎秀長ら一千余騎に淡河城を攻めさせる。城主淡河弾正忠定範【別所長治の義理の伯父】は此れをよく守るが続く浅野弾正少弼長政【石田三成・前田玄以等と共に豊臣政権の五奉行の一人】・杉原(七郎左衛門)家次【秀吉の正室・寧々の叔父・山崎の合戦後に 福知山城主となる】等に淡河城を囲まれ有馬則頼が萩原城・天正寺城等を付城に参戦した。
淡河城本丸跡から模擬櫓と天守台

「淡河合戦」では秀吉軍勢のなかに牝馬を放ち・敵の騎馬軍団を混乱させ一度は敗走させた要因として創作された?伝承なのでしょうか。勝算なき戦いを見定めてか秀吉方の総攻撃前に城から出撃した城兵を率いて定範は夜間・三木城に合流した奇略は有名!!。もぬけの空となった淡河城は落ち三木城に籠城した定範も同年9月三木城攻防戦の大村砦!合戦に出陣し加佐八幡の森で一族郎党と共に戦死。羽柴秀吉に占領された淡河城は萩原城主有馬法印則頼に1万5千石の居城として与えられ 九州征伐・朝鮮征伐(文禄の役)に従軍し関が原の合戦での功により 慶長6年(1601)三田城へ(3万石で)栄転して城は廃された様だが元和元年(1615)一国一城令が
二ノ丸:竹慶寺跡に建つ淡河家廟所

配布されて廃城となり元和3年(1617)に取り壊されました。城遺構は本丸と天守台・堀を残すだけとなっており幅15m・深さ3~5mの堀に囲まれ本丸の南に高さ3m・東西50m・南北8~16mの稲荷社境内に天守台を配する構えが当時の面影を残す。本丸南東の二ノ丸(田圃の奥)には江戸時代中期頃に廃寺となった城主の菩提寺・竹慶寺跡があり境内跡には鎌倉時代以降・淡河氏代々の墓碑が白壁に護られる中に整然と並んでいる。
(現地城址案内板等を参照I氏より淡河城顕彰の碑文写を頂き 修正再加筆)


淡河城西付城と南付城
淡河城西付城
  xxx山? Ca160m  神戸市北区淡河町淡河

天正7年(1579)三木合戦の際:羽柴秀吉軍は三木城周辺の支城や、別所氏に従う東播磨諸々の領主の城を攻め落としていきます。同年5月羽柴秀吉は花隈城~淡河城~三木城へと運び込まれる毛利方の兵糧補給経路の封鎖を狙い先ず丹生山城を奇襲・続いて 其の兵糧補給基地でもあり智将淡河弾正忠定範【三木城主別所長治の義父】が守る淡河城へは秀吉の弟小一郎秀長ら一千余騎を向けて攻めさせ東付城(R428号沿い無動寺付近か?有馬法印則範)・西付城(淡河城西ノ丸の
簡易水道施設西の農道右藪中が西付城・コンテナ先からも侵入可

西南方?浅野弾正長政)・南付城(西付城の南東へ約300m程:有馬則頼の長男・四郎次郎則氏)・北付城天正寺城(杉原七郎左衛門家次)を築いて淡河城を包囲していく。続く浅野弾正少弼長政【石田三成・前田玄以等と共に豊臣政権の五奉行の一人】・杉原(七郎左衛門)家次【秀吉の正室・寧々の叔父・山崎での合戦後に福知山城主となる】等に淡河城を囲まれ有馬則頼が萩原城・天正寺城等を付城に参戦した淡河合戦には一族・郎党・足軽人夫等を集めて、
西付城:コンテナ先からは谷を挟み竪土塁・谷底の土橋状を渡り主郭部に入る

車蔆(撒き菱)を敷き・逆茂木や綱を張り巡らせて防備を堅める一方近在より牝馬を集め防戦準備を整えたところで「城では連日の様に城外に出て作業をしている」と流布させ、これを聞いた寄手秀長軍らはチャンスと捉え500騎ばかりで攻め寄せるが撒き菱に足を痛めて攻め倦ねているなか牝馬を放ち・敵の騎馬軍団を混乱させ、そこに淡河勢が攻め込み一度は敗走させた要因として創作された伝承なのでしょうか?秀吉はきっと大軍で攻め寄せてくる筈。

西付城内の空堀遺構

淡河の小勢では護りも無理な勝算なき戦いを見定めて城に火を放ち秀吉方の総攻撃前に城から出撃した兵を率いた定範は夜間・三木城に合流した奇略は有名!。もぬけの空となった淡河城は落ち三木城に籠城した定範も同年9月三木城攻防戦の合戦では大村平田村に谷大膳の陣を攻撃し大膳は討死するが 定範も手傷を受けて逃れるが追いつかれ加佐八幡の森で一族郎党と共に討死した。淡河合戦の東西南北の付城群でも淡河城直近の西の付城南の付き城を訪ねてみる。
淡河城西付城:北端曲輪の西面土塁

淡河城西付城へは 道の駅から県道38号線を西へ、淡河郵便局先の下河原交差点から南への道へ入ればよいが屈曲する分岐からの登り坂は初めてなら判り難い地区道。淡河城本丸・淡河氏墓所から400m程の距離だが先ずは西側田圃の中の直線道路南端の集落を目指して進む前方南西の丘陵端が第一目標?の西付城。正面丘陵が陰となり判らないが南奥部の丘陵内と其の林道を挟んだ西側付近が第二目標?の南付城。西付城から南付城へ延びる農道は南付城の直ぐ南側で猪鹿防護ゲート・フエンスを開閉して舗装林道が更に延びていくが終点付近からはシビレ山・丹生山への丘陵尾根に繋がる三木市・神戸北との市境界尾根。淡河からなら帝釈山・稚児ヶ墓山の丘陵尾根とも繋がる。
西付城内の低土塁と横掘(空堀)

前ルートは兵糧搬入丹生山ルートの遮断・後ルートは淡河城側等から兵火を避け南方の北区山田町側へ老若男女が逃れようとしたルートだったか?。 稚児ヶ墓山の名に三木合戦悲話が残る。ここから西南を望むと帝釈山や丹生山から北に延び出した尾根が台地となって拡がっている。其の先端部は河川段丘の急崖となって浦川(丹生川)に落ち込む天然の要害を形成しています。此の崖上に淡河城が在り:黒っぽい張りぼての模擬櫓と城跡看板が見える。天守台もない筈の城跡に模擬の天守を建てる滑稽さからすればまだまし。低い段差や堀・土塁で曲輪を区分した城の遺構を毀してまで造成し展望台を造り城跡公園として子供の遊戯器具まで設置した例からすれば遥かに救われます。
淡河城西付城中程の浅いが長く延びる空掘(横掘)


城跡看板だけでもよいが・以前から 天守台に建つ稲荷社休憩所内に展示されている淡河城ミニ資料館の充実 (淡河町の誇れる城の歴史資料・PR館)・遺構の現状保存に努めていただければと思うのですが主郭と主郭西・南の一部城域に遺構が残るだけ。内堀で囲まれた本丸と淡河家歴代城主の 廟所となっている竹慶寺跡・二ノ丸付近までは何度か過去に歩いているが城域は更に広く・南の浦川沿い西側へと 田園一帯や集落を取り込んだ上山の台地の広範囲に拡がっています。東付城や西付城が余りにも淡河城に近いうえ西付城と南付城は淡河城と同じ 西付城:北端の低土塁曲輪・左手に空堀

上山台地の河川段丘上にあって間を遮断する谷・川・崖もないので淡河定範の奇策や城から出撃してきた城兵を率いて夜間には三木城に向った作戦とは裏腹に動向が監視出来る筈の位置に在った付城の性格・機能がよく分からない…先述の分布図には淡河城とのみ記されている範囲内の段丘西端部に沿って集落内の道を南へ進む。最奥の民家から段差のある田圃が並んでおり 其の北末端から藪尾根が北方に延び出している。登ってきた農道の西下の谷筋に池を見る。
淡河城西付城:北端曲輪切岸と低土塁・空堀土橋虎口

急斜面の藪尾根が見え「ひょうごの城紀行」 (神戸新聞総合出版センター)淡河城の文中に城砦が記されていないが城遺構の状況からは「西の丸」が其れに該当するところなのでしょうか?。多田暢久氏作図の「淡河西付城現状図」から此れを城名としておく。「…台地が西に突出して独立した郭を形成しており空掘りと土塁に囲まれていたようである。この北側から約1メートルの丸太を並べた櫓遺構が見つかっている。ここは重臣たちの館があったらしい。これらのすべては破壊されてない」…とも。淡河城西付城へは直進する農道脇の左手に「淡河簡易水道」施設があり、
淡河城南付城:貯水池”原池”右手の丘陵内

右手(西方)の田圃と藪地に沿う道の奥に トラックのコンテナだけが外され置かれている空地?に向かって進む。右手の藪中に下っていく踏み跡を探して見てください。猛烈な藪は数mで抜けられ藪の少ない緩やかな尾根上の台地に出る。淡河城に寄ったのなら一帯が田園の中の二ノ丸から南ノ丸と三ノ丸の間を南西方へ約400m程丘陵西端に向かい農道を緩やかに登っていくと「淡河簡易水道」施設前に出る。急斜面下には農道から見た池があり尾根の西側も急な深い谷となって城域に入って直ぐの横掘りが谷まで伸びて落ちています。
淡河城南付城:西側の谷に面して長い一条の土塁が延びる


西側の谷寄りの曲輪端に沿って 50~70cm程の低土塁を廻らす広い曲輪の中央部付近には埋もれ浅くなっているが長い横掘りがあり堀に沿って低土塁が走る。北方の端にも同様の土塁曲輪があり外周の低土塁も1mを越える程になり、曲輪を補強して外面は2~3m程の切岸を立て 土塁の切れ目からは土橋付空堀を通る虎口となって不整地の尾根筋を下ります。
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淡河城西付城
 xx山? Ca180m  神戸市北区淡河町淡河

淡河城南付城は西付城への分岐:簡易水道施設から更に直進する農道の先・淡河水利組合管理の 貯水池”原池”に接する南側。農道を挟んだ溜池の南側角からフェンス沿いに進むと二基の家型石造りの祠が祀られている側迄を北端として現状では 南に約100m程で車道に挟まれる付近までが南端か?。祠の南西裏側は急斜な谷・谷に面した曲輪(平坦地形で中央付近に
南付城:曲輪西端の土塁線

空堀とほぼ並行して引水用側溝が溜池側に延びる)沿いには南端の車道付近まで長い土塁(高さ2m程)が遺されている。南付城の農道沿い車道は南側に墓地・続いて鹿猪除ゲートがあり林道が丹生山側枝尾根裾 に向かう。農道を挟んで東北側にも切岸明瞭?な段曲輪?が3段程続くが下段は藪地。下方の集落へ降りる狭い車道を挟んで北西にも溜池と棚田があるが付城との関連は不詳。下方の集落から真北へ下る田圃の中の車道・正面右手に淡河城が見える。
淡河城南付城:曲輪内の空堀!!

一面広い平坦地形・曲輪内の整地は荒く、周辺一帯が農地として造成されたが後は林業作業用の用材集積地に?。谷側に残る一条の土塁線は造成時の残土であったか?。曲輪中央付近の空堀(横掘)は付城内を分けるものか・単郭だったか?南面の土塁線・西の溜池境が残欠土塁跡と思える以外には曲輪境を区分する土塁・切岸・掘等がなく 城域の判断が付き難い。


丹生山城(丹生寺城)
  神戸市北区山田町坂本

丹生・帝釈山系の丹生山-帝釈山-稚児ヶ墓山-花折山-金剛童子山へは「太陽と緑の道」道標が立ち随所に史跡・伝説地が散存する歴史の道でもある。一般的に丹生(にぶ・にゅう)「たんじょう」神社と呼ばれる。「丹」は丹頂鶴に例えると分かり易い"朱や赤"を指す。私の郷土は「丹波赤米の里」で平城京跡出土の木簡に「氷上郡井原郷(山南町井原)の赤搗米(赤米)があり、
丹生山城(明要寺跡)

丹(あか)い米が波打つように穣かに稔る意味「丹波」に由来するとも…。水銀の原鉱である辰砂(別名:丹砂・朱砂・赤色硫化水銀)日本では古来「丹(に)と呼ばれた 赤土を産する地において丹生氏族が水銀の生産を行った。丹生神社の祭神丹生都比売命は此の辰砂の産出を司る神でもあり水銀鉱業を生業とする丹生(にう・にぶ)氏族の氏神。伝承には火や血の赤色は死霊封じ・活力や蘇生にと霊力を得られると…ベンガラ(鉄丹)や辰砂の朱塗り埋葬棺が確認されたり …朱が呪術的に信じられた古代社会では「武器や衣服に:丹(赤土)を塗り戦えば勝てる…」との丹生都比売命の神託に従い戦勝した「播磨風土記」の伝説にある。丹生山城516mは山上に「史跡丹生山城 丹生山明要寺」の石碑が立つ「明要寺跡・丹生神社一帯から・更に北方の淡河町に至る尾根筋にも曲輪遺構が遺る…。神功皇后の三韓征伐(朝鮮新羅出兵)に由来する古話や日本書紀によると百済王朝第26代の聖明王の太子:恵(童男行者を名乗る)の使者が仏像(釈迦如来像)・経典・仏具を第29代欽明天皇(在位539-571)の13年(552)に献上した 日本仏教伝来(元興寺:飛鳥寺縁起に538年説有)に始まり 第33代:推古天皇(在位592-628)の時代に仏教興隆の詔(命令)が出され各地で寺院建立が始まる…
明要寺跡主郭:北面と東面の石垣

明要寺は仏教伝来起源以前に建立された最古社。平安末期の治承4年(1180)平清盛の福原遷都の際・福原京(兵庫区)鎮護として堂塔を整備し比叡山の日吉山王権現を勧請して祀り・月参りしたと伝えられる西の比叡山で福原京を起点に丹生山神社頂上までの町石を建立したと云われ、明要寺の鎮守社となっていたが延暦寺の蜂起・源頼政の挙兵等政情不安により遷都未完のまま京へ環都している。
丹生山城(明要寺跡主郭)

源平合戦では元暦2年(1185)京を発ち京街道を進み丹波道を:篠山市に入り義経伝説の笛吹山・其の従者:鷲尾三郎経春(義久)・伊勢三郎義盛 供養碑・那須与一所縁の瑞祥寺等に関する伝承等篠山市内の彼方此方に残る。播磨三草山合戦に次ぎ一の谷の戦いで名を馳せた鵯越え「義経道」伝説が残る。
明要寺跡唯一?の井戸跡には四方石積が残る

一ノ谷へと先導したのが北区山田町出身とされる鷲尾三郎。南北朝期の丹生神社は丹生山城として明要寺を城郭化し多くの僧兵を抱える一大勢力を持っており:南朝方の拠点となって城将・吉川八郎兵衛尉経清等が護っていた。数多くの堂宇・伽藍を持つ丹生山明要寺は暦応元年(1338)後醍醐天皇・楠木正成ら南朝方の拠点として柏尾城・金剛童子砦・花折砦・稚児ヶ墓山城…に塞城を構えていた
明要寺跡南東下曲輪の土留石積と高い切岸

新田義貞臣(新田氏一族庶流)金谷(治部大輔)経氏が僧兵等をたより丹生山明要寺を城郭化し守将:吉川八郎兵衛尉経清等が拠っていた。淡河城主も南朝方に付き播磨守護:赤松則村と戦い暦応2年(1339)志染に陣を敷いた則祐(則村の三男)軍による明要寺攻め・淡河・石峰寺・三津田の合戦に落城している。
谷底への曲輪群:切岸下に凡そW(20m)xD(100m)の長い平坦地が延びる

天正6年(1578)三木合戦の折、毛利攻めの前戦基地として信長命で築かれ伊丹有岡城の荒木村重が守将として花隈城に入ったが別所長治に続き信長に叛き・三木城攻めが始まると別所方に味方して三木籠城の軍を支援する為:毛利軍からの兵糧等物資輸送の補給基地として梶原景行が守る高砂城や魚住城には吉川元春・小早川隆景が入り加古川を遡上・
井戸郭(林道)から登山道尾根へもの切岸高い曲輪段

美嚢川からの兵糧輸送は早々?基地の高砂城等は秀吉方の攻撃に落城しルートは閉鎖された。毛利方についた別所氏を討つべく秀吉の三木城攻めが始まり、別所氏に通じた荒木村重が花隈城より明要寺・丹生山経由で毛利氏から明石魚住や神戸灘へ送られた物資補給の中継所としていたようで此処を守備していたのは志方城の幕下で神木(こうぎ)砦(加古川市平荘町)の城主・高橋平左衛門尉政純といわれます。信長の一向宗弾圧に対する本願寺を支える抵抗は根強く明要寺・石峰寺は無論…
丹生神社社務所前から本殿側切岸

花隈城に入っていた「領地を持たない一向宗徒の雑賀衆(鈴木孫市)・根来衆(渡辺藤左衛門)ら和歌山の鉄砲に長けた傭兵や僧兵」・近隣の野武士や百姓らも連携して花熊城から丹生山城-淡河城経由のルートを確保し三木城への兵糧運搬に加担し丹生山城・明要寺を城郭化再構築?し籠城。花熊城同様・丹生山城もまた信長に抵抗を示す一向一揆の戦い!。
丹生神社から坂本・衝原湖への尾根筋(下界!は鈴蘭台方面)

丹生山城南口守備に付く志方城(櫛橋氏)の家臣で神木(こうぎ)構居城主 高橋平左衛門政純・北口の志染・淡河方面の守備は淡河城主淡河弾正忠正定範。天正7年(1579)2月連絡・兵糧等搬送ルート確保の為、三木城主・別所長治が明要寺を城塞化したが淡河城との連絡をつけるに留まったよう。天正7年5月秀吉勢は秀長(弟)に命じ丹生山城に夜襲を掛け・一斉に建物に火を付けられ全山焼亡し落城。
丹生神社本殿南尾根に段曲輪(5段程)更に下方にも?…未確認)

丹生神社(山頂)から殊に明要寺跡から谷底?にむかい無数の曲輪群(僧坊跡の平坦地形)がある。東西450m以上!・南北凡そ200mの大規模範囲の「明要寺を主郭」とする丹生山城南部と丹生神社からの北尾根をシビレ山側に掛け南北450m程・東西凡そ200m程の範囲を丹生山城北部と便宜上分ける。【丹生山城南部】の曲輪群の殆どは僧坊・塔頭・宿坊。明要寺跡の南・西・北には折れを伴い三方に石垣・北東に高い切岸と石積・小谷を挟んで向かいに現状:防火用水?覆屋のある水場があり旧石積用水池跡・
丹生神社からの林道沿い左尾根筋の切岸高い曲輪段

何処まで下方に続くのか…と思える尾根筋には東西100mに及ぶ曲輪があり其の中程には高土塁(H10m・W1m)もある。衝原や坂本からの登山道合流点付近の西側に墓所:宝篋印塔、東の谷側に見る石仏や五輪塔群は丹生山城落の際の供養塔? 多くの死者を弔った五輪ヶ谷と云われる場所もあるらしいが…?。明要寺跡も曲輪の北端まで竹藪が切開かれて水場側の石垣・石積・東下への
上の画像の先:連郭群と堀切!

曲輪段が確認出来たが丹生神社拝殿・本殿から南下への尾根筋も切開かれて数段の小曲輪と、本殿西下部の極小曲輪群だけが志染や木津方面監視の城郭遺構に思える。丹生山城落城のさい侍児・稚児達が北東尾根伝いに帝釈山を越えて逃れたが東の山(稚児ヶ墓山)付近で秀吉方に見つかり切り殺された悲惨な話を伝える稚児ヶ墓山と花折山がある。その後:秀吉の好意で復興した明要寺も明治初年に廃仏毀釈で廃寺となり明治2年山王社は丹生神社と改称され現在に至る。
シビレ山・帝釈山分岐付近の曲輪壇

食料も尽き餓え苦しむ悲惨な城内の領民や兵の命を救うため 天正8年(1580)1月城主長治は一族とともに自刃し開城した。【丹生山城北部】丹生神社鳥居を左に見て帝釈山系登山道を北へ直進する。右下には切岸高い曲輪群・下方に覆屋のある水場が見え、坂本から通じているのか?車道林道の分岐が水場前まで延びる。丹生神社社務所から見る高い切岸上の本殿は如何にも主郭。拝殿から南へ延びる尾根の切開かれている部分まで段曲輪をみる。
丹生山城南尾根部:高土塁は鐘楼・櫓台スペースはなく指揮台か?

西神戸の眺望が拡がるだけに下方の藪尾根筋に数段曲輪は続くかも…。本殿背後からは蝙蝠谷への尾根を衝原湖へ下れるが帝釈山系縦走路分岐点に戻るが道沿い左上の尾根筋(殆どの登山者は気付かない?)”丹生山城南部”の縄張には見ない堀切もある。帝釈山縦走路からシビレ山-三木市志染町方面分岐側尾根筋に移ると 丹生山城から淡河城経由で三木城へ搬送した兵糧輸送メインルートだったか!?。如何にも…警護の曲輪・広い平坦段や堀切状?も見る。直ぐ西下方で志染町側:淡河町側尾根分岐になる様なので搬送路は坂本方面から上がってくる林道先で、
明要寺2丁石(登山道側)の曲輪(周辺にも段曲輪有)

尾根筋西下方・山腹を捲く高低差の少ない水平道が尾根分岐まで通じていたのかも?。三木城への兵糧補給基地:明要寺も天正7年秀長(弟)による夜襲に落城「淡河城(神戸市北区)を介しての兵糧輸送ルート確保のため城郭化された明要寺だが淡河城との連絡をつけるに留まり機能しなかったよう?」後は衰亡し明治政府の新道優遇措置に廃仏毀釈が起き貴重な文化遺産は壊され、心の糧・明要寺は廃され明治2年鎮守社の丹生神社が残った。「諸行無常 奢れる者は久しからず…」未だに教訓として活かされていない。


三津田城(勝尾山城・満田城・三田城)  152m   三木市志染町三津田字城ノ越

志染町三津田は明石・有馬~姫路を結ぶ湯山街道の要衝に位置し摂津と播磨を結ぶ最短路で観応の擾乱 (観応2年(1351)の光明寺合戦)や文明17年(1485)赤松政則が播磨に入り山名氏と戦った時も山田から志染の三津田~光明寺(加東郡滝野)へ抜ける。淡河川と山田川合流地点でもあり、二つの川に挟まれ三津田と戸田の境に延びる、
満田城本丸側から突出た曲輪と堀切道

低い山稜ですが山頂附近は岩山で絶壁に囲まれた狭い台地に三津田城があって満願寺の北東(三津田下)に城跡へは約400mほどで峠越えの道があります。古い石仏・石碑が寄せられた登り口には仏像を浮き彫りした 石標「左三木・小野右有馬・三田」とあって 此処が湯山街道であった事を示しています。車一台どうにか越せそうな山道だが途中には池や広い削平地が何箇所かあるが畑地や畑地跡でもなさそうなので一部では庭木等の植樹がされているのかも?。
満田城(土塁に沿って右回りに堀切道に)

すぐ其処が城址なので居住地域だったと思えるが土塁等構居の遺構はなさそうです。峠が既に堀切状になっていて「満田城址はこの上」の白い標柱が立つ。山頂部附近は岩と絶壁で天然の要害となっており本丸・二の丸・三の丸等曲輪跡や堀切・土塁・居館跡の遺構が残されています。本郭部から西北と東南の二方向に分かれる尾根上にも削平地が残るが篠藪が尾根と谷を埋め尽くし、薮蚊にも攻められて遺構の確認もジックリ観察出来ない。
満田城本丸側の堀切道

残存する遺構の状態は良く判り、東の明石出の道を隔てた高台には五輪塔が祀ってあるそうです。幡山・城の越の地名があり鎌倉時代から平氏9代、淡河氏4代がこの要塞の地を出城としたと思われ、兵達は下三津田全域に住んでいたらしく遊女田・小巻の名も残っている。築城や城主についての記録がないので別所氏配下のあった城と思われるが有馬則景の子重則の時、三田・車瀬から居城を播磨国三津田(満田)城に移した。有馬則頼は天文2年(1533)此処・三津田城内で有馬重則の次男として生まれています。途中経緯不明ですが淡河や三木城の出城として20数年勢威を振るったとされるが天文23年(1554)有馬氏・三好氏が三木の別所氏を攻撃した際に落とされた城のひとつです。
満田城:西南(二の丸)から本丸虎口(右端へ廻り込んで抜ける)

重則は永禄元年(1558年)永久秀が大和で兵を挙げた時これと交戦して戦死。父の死後は姉婿の阿波の三好之虎の世話になっていたが之虎が永禄3年(1560年)泉州久米田の戦いで陣没すると則頼は剃髪して無清と改名し以後、有馬法印とも呼ばれます。その後、再び三津田城に戻っており有馬重則・則頼の出城として 20数年間勢威をふるった山城で、東から西への尾根は枝尾根を分け曲輪を連ねて東の主郭から北へ伸びる尾根には堀切跡等の遺構が比較的良く残されています。
(現地案内板等を参照)

衝原城 xxxm   神戸市北区山田町衝原

日本最古の民家「箱木千年家」の背後の小高い丘の周辺を切岸や空堀が取り巻いている! 城主は箱木氏と伝えられる? ダム工事で移築される前なのか?場所も何もかも未詳…です
衝原城(呑吐ダム側の山)??土橋と2m程の堀切跡は幻だったか??

以前三津田城が判らず呑吐ダムの北、三津田へ向う車道の東側の山に登ったが尾根伝いに広く平坦な箇所が多く、途中には2箇所ばかりの堀切らしいものがあり、そのうち一つが土橋を伴う堀切?


端谷城(櫨谷城・衣笠城・寺谷城)   Ca140m  神戸市西区櫨谷町寺谷字城山

東西両面が天然の深く切立った断崖となり城の規模は小さいながらも「一の曲輪(本丸)」にある物見台の北面には、北から伸びる丘陵の尾根を完全に切断した深さ10mを越す見事な大堀切と空掘、さらには城域内各所に土塁・侍溜りや侍走りが設けられており、満福寺のある南側正面以外には侵入も容易でない要害にあって難攻の堅固な城砦を築きあげています。
端谷城・二ノ曲輪西面の切岸

二の曲輪(幅25m・長さ65m)は端谷城域で最も広い曲輪で 西神ニュータウンや淡路島・明石の海峡の展望も 楽しめます。また急斜な西面には腰曲輪を設け主郭より西南の尾根に曲輪が張り出しており 尾根上には幅広土塁で囲まれた2段の曲輪が配置され本丸・二の曲輪に対峙して谷を囲むように防御する。端谷城は櫨谷川(枦谷川)の谷筋に鎌倉時代中期には櫨谷保の保司として荘園を領し文永年間(1264-75)衣笠法眼が諏訪大明神を氏神として勧請し
二ノ曲輪から本郭部を望む

寺谷の満願寺と福谷の宝福寺(衣笠法眼の菩提寺)を衣笠左衛門佐が友清に衣笠氏親族の菩提寺として新長谷寺を建立しているので赤松祐盛が衣笠姓を得て 文応元年(1260)頃に入部した頃には既に衣笠姓が存在していたことになる。室町時代・嘉吉の乱(1441)では赤松満祐に従って衣笠政重・政景が活躍する。ただ城砦の築城時期については不明。衣笠氏は播磨守護赤松円心の弟・敦光から出た 別所氏の一族で飾磨郡夢前町の立舟野城(賀野城)主だった祐定の子・祐盛が祖とされ ています。赤松祐盛は赤松政則に属し 応仁の乱(1467-77)等で活躍した軍功によって衣笠姓を得て入部し此処に城を築いたとされています。
【西南の尾根の曲輪・下の段の土塁道】

その後は福中城の間嶋氏(平野町福中)などと勢力争いを続け、勢力拡大に伴い櫨谷の谷筋に池谷城・福谷城・城ヶ市城・城ヶ谷砦・鷹尾城・友清城など 衣笠氏一族のものと考えられる城や砦を築いていきます。衣笠五郎左衛門尉範弘の子で、端谷城最後の城主となった衣笠豊前守範景が 衣笠氏代々の本城であった池谷城を端谷に移し本城とした。戦国期に入り別所氏(三木城)が勢力をのばし東播磨の覇者となった時、別所方の端谷城は三木城支城の役割を果たす事になります。播磨の守護職であった赤松義村は 第11代足利将軍義澄から亀王丸(後の将軍義晴)を預かっていました。
二ノ曲輪側に対峙する切岸/下の段の曲輪内側

永正17年(1520)一族でのちの三石城主・浦上村宗が勢力を伸ばし主君の義村を隠居させてしまう。義村は赤松の勢いを回復させようと亀王丸を奉じて密かに置塩城を抜け出し端谷城の衣笠五郎右衛門尉範弘を頼ってきたのです。義村は此処で兵力を蓄えて翌18年(1521)には亀王丸を先頭に御着まで兵を進めたが味方の弘岡左京進が浦上方につく裏切りによって失敗し東条の玉泉寺に逃れ範弘も端谷城に帰る。やがて浦上氏と和解し将軍も亡くなったため亀王丸が京に帰って将軍となる。大永7年(1527)12月には足利義晴が立寄った程に明石郡寺谷一帯を領して其の威を誇っていたが範弘の子・範景の頃、天文23年(1554)には三好長慶の攻撃を受けて落城しています。
二ノ丸の曲輪

天正6年(1578)羽柴秀吉の 三木合戦で衣笠範景は淡河城主・淡河弾正定範、野口城主・長井四郎左衛門時邦、志方城主・櫛橋左京亮(さきょうのすけ)伊則、神吉城主・神吉民部少輔頼定、高砂城主・梶原景行、福中城の間嶋氏等と三木城主別所長治に従って端谷城に立て篭ったが織田軍(羽柴秀吉)の侍大将織田七兵衛信澄・明石与四郎則実 (枝吉城主)・生駒政勝・浅井新八等によって攻められ籠城戦の末に天正8年(1580)2月落城し廃城となりましたが、この時期の遺構が比較的良好に保存され今に残ります。
(ひょうごの城紀行 及び 寺谷里つくり協議会の現地端谷城案内板等を参照)



池谷(いけや)城 (城ヶ谷構) 城山 102m  神戸市西区櫨谷町池谷字城ヶ谷

前回・端谷城を訪れた際、池谷城の存在を知ったが何処にあるのかよく分からず今回・櫨谷小学校の南方に二つの小丘が並んでいるのに検討を付け山容から城跡らしい!?西側の丘に向かったが本命は中継施設の方だったか?。西側の丘は東面は崖、北面の民家裏も高い切岸で切り立っていた。民家横から堀底道のような山道は直ぐ上部の民有地に出た。

池谷城・民家の影になっている中継塔の有るのが本城ですが・・

西側は畑地だが林の中には広い数段の平坦地があり平坦地を繋いで虎口を思わせる屈曲した通路もある。他に城の防備を感じさせるものは何もなく、ある筈の土塁・堀切も見当たらず自然地形を思い込みから、そう感じただけかも知れない。播磨守護赤松円心の弟・敦光から出た別所氏の一族で飾磨郡夢前町の立舟野城主(賀野城)祐定の子・祐盛が室町時代中期・赤松政則に属し、
池谷城と思い込んだ!!??西ノ出城?!

応仁の乱(1467-77)等で活躍した軍功によって衣笠姓を得て入部し築城時期等は不詳だが 先に池谷城を築き後に端谷城に移るまで居城とされていました。池谷城は城山の最高所Ca102mに物見台を配した本丸があり随所に削平地や土塁・竪堀・空掘・堀切が設けられ良好な形で残っているといわれます。とりわけ竪堀・土塁群が物見台南東部に集中して設けられており空掘底を利用して堀底道も遺っていると云われる。永禄年間・衣笠氏は端谷城を築き此れまで居城としていた池谷城を廃城して移ったといわれます。
池谷城と思い込んでいた!?西ノ出城?!

要害とはいえ小さな橋谷古城の池谷城や端谷城も、 三木合戦では別所方に付いて落城するまで池谷の城も支城として機能していたことでしょう。城域の土地所有者の立入り拒否及び、雑木藪で遺構が確認出来なかったり、折り重なるように倒れた竹薮に侵入を拒絶されないことを願って…!!再トライです。 天正8年(1580)羽柴秀吉の三木城攻めの際、本城の端谷城落城と共に池谷城も落とされたと思われます。その後は端谷城を攻めた武将の一人、明石与四郎則実(枝吉城主)が入って 秀吉方の向城の一つとして機能したようです。

太山寺城   城山(本郭部)帝釈山173m・ 三身山(二ノ丸Ca200m)  神戸市西区伊川谷町前開

阪神高速北神戸線・前開インタを降りて伊川沿いに大山寺へは県道16号を東へ、太山寺温泉「なでしこの湯」の大きな看板が目印。ラジウム温泉保養施設があり県道筋を直ぐの所に堂々の仁王門があるが他所のあったものが室町後期・此処に移築され、その際に上層部は撤去され軒回りも縮小された事が解体修理時(昭和28年)に確認されている。創建年代は不詳ですが建築様式等から鎌倉時代末期頃と推定されます。
太山寺

仁王門(国重要文化財)を潜り数件の民家の間の参道を通って白い長壁が続く 塀の沿えば太山寺城の有った帝釈山(本郭部・県道トンネル上部)と 三身山(二ノ丸!)の碧を背にした太山寺の彩色も鮮やかな三重塔が見える。伊川上流へと渓谷沿いに入っていくと磨崖仏や奥の院へ通じ県道トンネル手前(西)に道標もある。奥の院の「閼伽井の水」は目の病に効くといわれます…また太山寺を囲む周辺の低山は八葉蓮華と称されコジイ・ウバメガシを主とする照葉樹林に覆われており、約160種類の植物が自生する県下最大の自然林で県の天然記念物に指定されています。
太山寺城・本丸!?(帝釈山)

太山寺は鎌倉~室町時代にかけて隆盛を誇り、 南北朝期には41の塔頭・七堂伽藍を配し末寺や末社を数社抱えて僧兵も養っていたという壮大な天台宗の名刹でした。大正2年(1913)国宝に指定された本堂は県下6ヶ所14棟ある 国宝建造物のうち、神戸市内唯一のもので昭和39年(1964)修復された鎌倉時代の大規模な仏堂は和唐折衷様式です。奈良時代に藤原鎌足の発願により長男・定恵和尚が開基、孫の藤原宇合(藤原不比等の子!!)によって霊亀2年(716)に創建されたと伝えられる古刹です。
(現地案内板 神戸市 参照)
大堀切から帝釈山側へ直ぐ大岩の上に建つ籠堂?


仁王門まで戻り県道を東へ進みトンネル手前左の農道を山に向かっても、右手へ入る細い道を磨崖仏・奥の院へとり役行者石像を祀る帝釈山山頂を目指しても良い。後者の方が判り易いかも…!!阪神間の山に陰気さは感じないが薄暗い参道に立つ石仏は山攻め、城攻め登山には快適な気分にはなりませんね。本郭部と思える帝釈山山頂や三身山側の山頂部も平坦な地形だが、素人の私には削平や曲輪遺構の痕跡が判らない。しかし二つの山の鞍部を10数mも深く切り裂いた堀切と切岸は圧巻です。其処から右手の帝釈山へ進むと2~3の斜傾した削平地や浅い堀切らしい部分があったり大岩上には籠堂のような建物があり往時は木戸が建ち門兵が居た様な雰囲気です。
太山寺城

太山寺城の築城時期や城史は不明だが南北朝期・僧兵を擁していた寺なので有事の臨戦体制を山上に備えていたかもしれません。また周辺近場には池谷城(端谷古城)や端谷城があって 鎌倉時代中期・櫨谷川筋の荘園を領していた赤松方の衣笠氏の【応仁の乱(1467-77)以降】城となっていたとも思えます。同じ伊川谷町前開には室町時代中期・赤松氏傘下・明石氏の枝吉城の支城として築かれた伊川城があったので (場所不詳・伊川谷町前開字高畑山?)別所氏の城だったかも。いずれにしても播磨守護・赤松氏方の城の一つとして機能していたのでしょう。

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